EDO弦月人 第4回 井手真博さん(27回生)

Chaos(混沌)

私の母の実家は、神話の故郷(天孫降臨の地)天津祝詞にうたわれる、天教(日向)の橘の音戸の阿波岐が丹田から北西に 20 キロ、西都市穂北村囲にある如法寺という曹洞宗の古寺です。父博は妻高校野球部監督~大宮高校数学教師。母礼子は妻中~宮崎中~東小という共稼ぎの家に生まれた私は、幼稚園に入るまで祖父である政元大和尚の元で過ごすことになりました。
子守歌に般若心経を聞き「色即是空 空即是色」と唱えながら檀家を回り、読んだ絵本は、閻魔大王や地獄の話。地獄にも階層(差別を感じた始まり)があり、極悪人から、三途の川の賽の河原で石を積む子供たちまで、そこからの魂の救済が宗教なのだろうか?
祖父の政元大和尚が亡くなった時、村中の人が心から泣き、村は喪に服した。
大和尚の教えは、「いろんな友達を作りなさい」「みんな仲良く」「他人の陰口は言うな」「嘘はつくな」以来、嘘をついてもすぐばれる。嘘をつくと、その嘘をかくす為に、また嘘をつく・・・。
小学生の頃、白土三平氏の「カムイ伝、外伝」を読み、抜忍の宿命と江戸時代の身分差別を知った。世界名作文学でゼウスという神の存在を知った。教科書でヒンズー教の「カースト制度」を習い「無産市民(アンタッチャブル)」という言葉を学んだ。
色んな民族の神を知り、色んな国の差別を知った。教えられるままに理解した。疑問を持つことも知らずに・・・。
あの頃、私達が学んだ学校教育は正しかったのだろうか?戦前の教育は間違いだったと言えるのだろうか?戦後の教育は正しかったのだろうか?現在の学校教育は本当に正しいのだろうか?
人間は、向上心や見栄という物欲がなければ努力しない。目標(夢)を持ち努力する過程が尊いのに、試験結果重視の偏差値教育は正しいと言えるのだろうか?
有名私立小・中・高・大学受験の為の塾通い。親の期待を一身に背負いながら、ある時期に思春期の子供達は、その矛盾に気づかないまま、親の期待の重みに耐えかねて現実から逃避し、学校を拒否し始める。
日本人の「和」の心が国際社会に通用しなくなった、この世知辛い世の中、比叡山の高僧 故酒井雄哉大阿闍梨に学んだ一言。
「悩みをなくす事なんて、簡単な事です。なあんにも無理することなく、物欲すべてを捨てれば良いのですよ。」
人間すべてが煩悩(夢・欲望・悩み・ストレス等)を捨て去れたら、そこに初めて差別のない世界(ユートピア)が創造されるのであろう。
しかしそれは、「色即是空・空即是色」の世界。すなわち「無」の世界。
10月5日(金)に開催された、宮崎市人会(てげてげ会)に参加している時に、IT部出原副部長より EDO弦月人に掲載する寄稿文の依頼を受けました。何事も断らない性格の私ですので、ふたつ返事で引受けさせて頂きました。「EDO 弦月人」ってなんだったっけ?
3 年間に渡って故郷宮崎で実家から通いながら営業の仕事をしてましたので、東京弦月会の事はすっかり忘れてました。学年幹事は続けてましたが、幹事会は欠席しておりました。
第1回が早下上智大学長(28 回生)、第2回が遠山さん(30 回生)、第3回が壷井さん(25回生)、そして第4回目が私との事ですが、さしたる経歴も資格も肩書もない、ただの野球好きな熱い男の半生を感じて頂ければと思います。
昭和31年5月3日に西都市穂北囲南名山如法寺(曹洞宗)に生を受け、一ツ瀬川で産湯につかり、6歳になると西都カトリック幼稚園に入園。(いきなりキリスト教入信です)翌年、西都市立妻北小学校に入学、現在は桜並木と古墳、季節限定の「菜の花」「ひまわり」「コスモス」で有名な西都原古墳群の雄大な自然に囲まれながら「男狭穂塚・女狭穂塚・鬼の窟」が遊び場。一ツ瀬川のからいも畑で野球にあけくれ天真爛漫に育ちました。
小学 6 年生時に父親が大宮高校、母親が宮崎中への転勤に伴い、宮崎市立潮見小学校へ転校。同級生は宮中から南高校へ進む中、宮崎大学教育学部付属中学校を受験。くじ引き制度第 1 号で合格。楽しい楽しい青
春時代の始まりでした。
何も迷わずに野球部へ入部。三沢高校太田幸司投手と松山商業井上明投手の延長 18 回、0 対 0 引き分け再試合という壮絶な投げ合いに感動し、甲子園を目指す夢が芽生えました。中学3年生の時には、練習試合を含め35連勝で宮崎市大会優勝。村角町に引っ越し、大宮高校を受験。合格発表と同時に野球部入部。3年生が 1 人もいないのにびっくり仰天。昭和32年(11回生)、昭和42年(21回生)には、甲子園に出場している伝統の野球部のはずなのに。それ以来51年間甲子園出場が途絶えてます。同学年は、徳地君(西中)、西村君(綾中)、井手(付中)の3人しかおらず、26 回生の先輩達には非常にお世話になり。1番セカンドとして、3 年間フルイニング出場しました。いちばん記憶に残る試合は、私が 2 年生で3年生が最後となる夏の甲子園大会宮崎県予選、宮崎県営球場で甲子園に出場した高鍋高校との試合です。妹尾投手が頑張り7回まで 0 対 0 後攻は大宮。スタンドは盛り上がりましたが、0対 2 で惜敗。1点が、ホームベースが遠い試合でした。生まれて初めて大泣きしました。もう2度と、先輩と一緒に野球ができない日が来るなんて・・。
3年になって主将となり何とか9人の部員を確保するのがやっとの時代。最後の試合は、翌年に甲子園に出場して赤ヘル旋風を巻き起こす日南高校が相手でした。(外山兄弟が活躍。兄徹君は現在、宮崎県議会副議
長です) 徳地投手が相手3番の柳沼選手(日南市役所勤務)に満塁からの三塁打を2本も浴びてコールドゲーム。この年は沖縄県との南九州大会が予定されており、全国で一番早く敗退した高校になり、長い夏休みになりました。(夏休みの間に車の運転免許を取りまして、大宮高校迄父親を乗せて登校したこともありました。)
この後、補習科入学、早稲田ゼミナール入学を経て、立教大学野球部に入部しました。(経済学部経済学科だったようです。)同じ時代の東京六大学には宮崎県出身者が多く、同学年で甲子園に出場した延岡高校の大山投手が早稲田大学、1学年下だった日南高校の外山徹三塁手が明治大学助監督、宮崎商業の柿木孝哉主将が明治大学主将、その翌年には私が立教大学助監督を務めることになるのです。立教大学野球部入部初日に事件は起こりました。夕方練習の終盤になって整理体操が終わり夕闇が迫る中、「1年生集合」の声がかかり、何だろう、自己紹介かななんて思ってたら、何の前触れもなく30発以上殴られました。私は「さすがに大学って違うんだな」と思ってしまいました。2浪してやっと入った野球部です。ここでやめてたら宮崎に帰れません。1年生部員は36人いましたが、翌日には20人に、1週間で10人に、最後に東海大相模の山口主将(原辰徳君が4番)が休みの翌日に祖父の山口久蔵氏(神奈川県高野連理事長、初代横浜スタジアム球場長)に置手紙を残して家出。朝日新聞に知られることとなり、立教大学で暴力事件発生とのスクープ記事が大問題になり、春・秋のシーズン共に西山投手(東京大学)に完封され最下位。立教大学史上最悪の暗黒時代を迎えたのです。幸い同期は 8 人が残り4年生の時には、春のシーズンは勝ち点3の2位。秋のシーズンは勝ち点 4 の2位。最終戦で法政大学が東京大学に負ければ優勝という夢まで見ることが出来まして、8人めでたく卒業、就職が決まりました。
大学で野球生活を完全燃焼した私は、秋の最終戦が終わり 11 月になって会社訪問開始。新宿で近いからという監督の勧めで、最初に訪問した大成建設で即内定を頂き、無事に入社する事が出来ました。以来、本社と東京支店間の転勤はありますが、同じ新宿センタービルの中、フロアが変わるだけの異動でした。38年間勤務して定年を迎え、再雇用社員として 5 年継続できるそうで、現在無理をすることなく、「てげてげ」に働いております。
完全燃焼したはずの野球だったのですが、息子の一真が小学3年生になる頃に、再度燃え上がります。一真が野球がやりたいと言ったので、即、自宅のある宮下自治会所属の野球チームに息子と共に入部しました。野球経験のないテニス部出身のお父さんが監督をしていて、すぐに私の野球経験を見抜かれ、2007 年から 10 年間宮下イーグルスの監督を務めました。相模原市は少年野球が盛んで秋の市民選手権大会には当時は 150 のチームがてっぺんを目指していました。(現在は 100 チームを割っています)残念ながら優勝は出来なかったのですがベスト 8 が 2 回と、そこそこの強豪チームに育て上げました。毎週土曜日、日曜日は野球漬けの日々を過ごし、ゴルフもやめました。そんな頃、榎町少年野球部との練習試合で、信じられない事が。私が主審をすることになり、試合開始の整列の時に、なんかどこかで見た顔が?相手も不思議そうな顔をして私を見ています。「あれっ外山じゃねぇ?」31 回生の外山君でした。大宮中出身の彼はドカベン山田太郎によく似たキャッチャーでした。外山君が監督していたチームは息子さんがエースの時に市民選手権で優勝しています。素晴らしい監督であり人格者でした。私が大学 4 年の時コーチとして大宮高校グランドで教えて以来の再会です。すぐに31回生の幹事をお願いして快く引き受けてくれました。残念ながら昨年亡くなられました。葬儀の際には、東京弦月会をはじめ同期の皆様も葬儀に参列して頂きありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。
さて、2005 年に企画部の福井さん(19 回生)から、運営部へ勧誘されまして、少年野球の監督業務を優先する事を条件に東京弦月会へ参加させて頂きました。その頃は企画部が、イベントなどの同窓会をプロデュースして、大宮高校出身の歌手や芸術家を探しては、出演交渉、会次第の検討作成と大変なご苦労をされてました。岩切部長(21 回生。今年 5 月に逝去)が心労を患い部長を黒木さん(25 回生)に託し宮崎に帰られ、さすがの福井副部長が孤軍奮闘な状況で、演奏者のネタも切れておりましたので、イベントのすべてを27回生に任せてくださいと申し出ました。まだ大森君も喪が明けたばかりで、承諾も取ってないのに、幹事の牧内さん(年逝去)とふたりでイベント進行の企画書を提出しました。
この年から学年幹事制が定着していくのですが、宮崎で開催している本家の弦月同窓会につきましても若手の学年幹事制で運営しており、何も珍しい事ではなかったのです。
今回の寄稿文を書くにあたって、高橋運営部長に、過去 11 年間(26回~36回の出席予定者数をグラフにしてみたところ非常に驚きました。簡単に説明させて頂きます。

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井手真博さん(27回生)の略歴

1956 年 5 月 3 日 宮崎県西都市穂北囲 南明山如法寺(曹洞宗)にて生まれる。
1972 年 4 月 1 日 宮崎県立宮崎大宮高校入学(9 人の部員獲得に苦労する)
1975 年 4 月 1 日 宮崎大宮高校補習科入校(東京六大学早稲田目指す)
1976 年 4 月 1 日 早稲田ゼミナール高田馬場校入校(早稲田の学生達と早朝野球)
1977 年 4 月 1 日 立教大学経済学部経済学科入学(野球部入部)
1981 年 4 月 1 日 大成建設株式会社入社
2007 年 4 月 1 日 東京弦月同窓会運営部長就任
2016 年 9 月 10 日 宮崎観光ホテルにて 27 回生全体還暦同窓会開催
2018 年 4 月 1 日 本社ソリューション営業本部へ異動(65 歳到来月まで再雇用継続)

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