【はじめに】
カーシュ(田中)幹子さん(ストックホルム在住)と大宮高校卒業後も交流されていた第14代宮崎大宮高校校長:隈元正行先生に追悼文を特別寄稿していただきました。
隈元先生、お忙しい中ご協力いただきありがとうございました。
【隈元正行氏】
第14代宮崎大宮高校校長
現在は、キャリアコンサルタント、申請取次行政書士、短大講師、スーパーグローバルハイスクールの運営指導委員など挑戦と体験からモノ言う人であり続けたいといつまでもアグレッシブに日々過ごされています。
【 42 回卒カーシュ幹子さんを悼む 】
「隈元先生、私結婚したい人がいるのですが、会っていただけませんか?」
「えっ、結婚? それはおめでとう ! 」
幹子さ ん、あの時も 、驚かされました 。 でも嬉しかったですよ。
東京出張の時、夜 会いましたね。 食事しながら話が弾 みました。
貴女は 大学を出て JICA に勤務してい て、彼(ハーダー )はスウェーデン人で会社の仕事で東京に 滞在して い た の で す よ ね 。好 青 年 で し た 。こ ん な 立 派な 青 年 と 縁 が あ っ た とはさすがだとおもいました。 昨日のように覚えています。
思 えば、およそ 30 年前、貴女は大宮に入学してきました。
温厚で マナーが良く 落 ち 着 いてい ま し た よ 。 好奇心もあり 学び方 を 知 っ て い た よ う に思います 。当時僕の英語の授業は英語で行っていました 。貴女は英語 を話すのが 好きでし た ね。留学生と もよく話していました。
その年 、レーガン大統領 高校生 プログラムの案内が県教育委員会からありました。
アメリカの高校 へ 1 年間留学でき しかも 参加費用は無料 という夢みたいなプログラムでした。 僕が教えてい た 1 年生 の 3 つ の クラスで生徒 たちに何 度となく 勧めたのですが希望者が現れず 残念ながら 締切日を迎えてしまいました。
ところが、そのあと幹子さん、貴女が名乗り出たのですよね。
締切日 は過ぎていました が、その行動力は何とか活かしたいと思いました。
ダメ元ですぐに僕は県教委に電話をし、申し込みの了解をいただ くことができ ました。
運よく 試 験に合格し た貴女は 翌 年 2 年生の秋から アメリカ に飛び立ちました ね 。
それから 英語で 手 紙のやりとり もしましたね。
その翌年僕は県教委に異動になってしまいました。
帰国し た貴女は、2 年生の 2 学期から大宮での生活を開始しましたので、卒業が 1 年 遅くなりました。
つまり大宮 で の 前半の 1 年半は 41 回卒の生徒たちと学び、残り 1 年半は 42 回卒の生徒たちと過ごしたのですよね。
これまで何 度 となく貴方には驚かされました。
3 年生後期 の突 然 の電 話もそうでした 。まだ携帯電話を持っていないころで し た からね。
しかも 県教委の指導主事だった僕はその日上司と 出 張 中 で した 。 急ぎの用で県教委 の僕 に 電 話 し た 貴 女 は 、僕 の 出 張 を 知 り 、金沢の宿にいる僕に 電話してきました 。貴女の行動力には驚きました。
大学で英語を専攻す べ き か フラン ス 語 に す る か 迷 っ て い る との 相談でした ね 。 英語は留学もしたし、自分でもブラッシュアップできるのでフランス語の方が より一層 世 界観が広がり面白いのではないかとアドバイスしました。
その後、 貴女は上智大学でフランス語を専攻し、 JICA に就職し ました。アフリカ担当でしたね。 そして、東京で彼と出会 ったのですよね 。
そして結婚。ストックホルムでの結婚式に招待状をいただきました。8 月でした。県教委の仕事が忙しく、特に新規 外国 人 英 語 教 師 受入れ 準備で 休暇を と る 余 裕 は 残念ながら ありませんでした。でも 9 月 には文科省の 1 か月派遣で、ス ウェーデン、デンマーク、アメリアに行く機会があり ましたので、その時、会えるかなと期待していました 。
ところが、 なんとあなた方 2 人 の新婚旅行はベトナム に 1 か月 滞在でした の で 結 局会え ま せんでしたね。
その後、ハーダー のフランス転勤 を機に貴女は JICA を辞めフランスで大学院へ進学しました。 大学でのフランス語専攻が活かされましたね。
その後、ウイーンでの生活、子ども誕生などありましたね。子どもさんとの写真を送っていただきました。
最終的にはストックホルムに落ち着きました ね 。 ス ト ッ ク ホルム か ら 彼 の ご 両 親 が 宮崎 に お 見 え に な っ た こ と が あ り ま し た 。義 父 は 国 務 大 臣 、義 母は 心 理 学 者 で し た 。驚 いたことに ご両親 は 僕 の こ と をよく 知 っ て い ま し た 。 僕 の こ とをち ゃ ん と 話 し て あ っ たのですね。
しかし、その後の貴女には 本当に 驚かされました 。
実業家になった 彼 と 3 人の子育てを楽し んでいるとばかり思っていたら、 ストックホルム大学の博士課程に入りました ね。貴女の行動力が続いていることを実感しました。
おっとりとして温和な貴女だと思っておりま す が 、 好 奇 心 だけで は な く 向 上 心 や 根 性は 相当なものだったのですね。
ス ウ ェ―デンでの 博士論文の審査 は厳格でした。ス ウ ェ ー デ ン で は 、博 士 論 文 は 指導教官 の審査 では甘くなるので、外国の学者から審査してもら うよう に な っ て い る の で すよ ね 。貴女の場合は、イギリスの大学教授 による審 査でしたね。無事博士となりました。
その論文集が送られてきてときは本当にうれしかったです。巻頭言に僕のことまで 書いてくれていました ね。僕 は 大したことは 何 もしていないと思っていま すが、貴女はいつも人に対して感謝することを大切にしていたのですね。
僕が五ヶ瀬中等教育学校の校長をしているときの冬休みに五ヶ瀬に会いに来 たいという 手紙をいただ い た こ と が ありま し た 。 で も そ の 時 僕 た ち 夫婦は 海 外 で休暇を過ごすこ と に決めてい て 、せっかくの機会でしたのに残念 なこと でした。しかしその後、県教委 に 異動になると、 2 人して会いに来て くれましたね。
貴女は、その後、 ストックホルム 大学の教授として活躍 することになりました。
日本の大学との共同研究もあったようですね。
数年前、帰国した際、貴女の講演を聞いたのが最後でした。
欧州あちこち旅行をしてきた僕ですが、スウェ―デンにもぜひ来てくださいと貴女から誘われながら、そのままになって いたことを今悔やんでおります。
幹子さん、貴女は、高校時代にアメリカ と出会い 、大学でフランス語と出会い、JICA でアフリカと出会い、東京で素敵な男性と出会い、最後は、教育に関心を持ち、子育てを楽しみながら 、大 学 で 教 え る と い う 、い く つ も の 役 割 を 肩ひじ張らず 自然に実践して きたように思 います 。
病 気 な ど し た こ と の な い 貴 女 が 、ガ ン と い う 病 に 罹 ったことが信じられません 。一昨年宮日新聞 1 面に貴女と貴女のお嬢さん の ことが笑顔の写真とともに 載っていました 。
そ の記事を読み連絡しようかなと考えていましたがそのまま にな っ て し ま い ま した。
連絡していたらと悔やまれます。そ の頃ガンと 闘って いたのですね。訃報をお母さまから聞き驚愕しました。 わが目、耳を疑いました。
お母さまから 写真を 1 枚いただきました よ。ワインを片手にいつもの笑顔で南フランス で の休暇を 楽しんでいる 素 敵 な 写 真 で す 。そ れ に 貴 女 の 最 後 の 本「 Love, Hope, Faith and Gratitude」 もいただき まし た。 病気と 対峙しな がら自 分の これまでの 人生を振り返り、生きることの意味を夫や子どもさんに伝えているのですね。海が好きだった貴女の散骨を終えたとお母さまからお聞きしました。
Rest in peace.
隈元正行
カーシュ(田中)幹子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
こちら(↓)も併せてお読みください。
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